「塙保己一記念館」のヒント

所在地  本庄市児玉町八幡山368番地(アスピアこだま内)

電話番号 0495-72-6032

開館時間 午前9時~午後4時30分

休館日  月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12/28~1/3)

入館料  無料

◎初期の塙保己一記念館は、今の塙保己一公園の近くにありました。

次に、雉岡城跡の中に建設し長く使われていました。

現在の塙保己一記念館は平成27年にリニューアルオープンしました。

◎東京都渋谷区には「公益社団法人 温故学会」が運営する「塙保己一史料館」があります。

温故学会は明治42年に塙保己一の偉業顕彰の目的から渋沢栄一、宮中顧問官 井上通泰、文学博士芳賀矢一、保己一曾孫塙忠雄の四氏により設立されました。

群書類従の版木17,244枚が保管され、現在も手刷りで刷り立て印刷されています。

 

②「歓喜山實相寺」のヒント

住所 本庄市児玉町児玉100

電話 0495-72-4165

 

◎児玉三十三霊場五番札所。

◎総検校塙保己一先生菩提寺。為大願成就。

塙保己一先生位牌とご両親の追善供養ろうそく立てが現存している。

なお、位牌やろうそく立てなどを観覧希望の方は、事前に実相寺様に希望日時や人数を郵便で照会してください。367-0212本庄市児玉町児玉100

  塙検校位牌 ろうそく立て

◎県指定文化財、鎌倉中期の木造阿弥陀三尊像がある。

◎庭に樹齢100年のしだれ桜がある。 

 

③塙保己一生家のヒント 本庄市児玉町保木野325

◎塙保己一先生の生家には、弟の卯右衛門さんの子孫の方が現在も居住

されていますので、門と建物等の外観だけを見学できます。

むやみに敷地内には入らない様にお願いいたします。

 ◎玄関前に「かまど跡の石碑」があります。『荻野家𦾔(旧)竈跡』

見取り図       誕生地の碑

◎庭の南側に、塙保己一旧宅母屋平面図があります。

◎西側の植込みには「誕生地の碑」が建っています。

『贈正四位塙保己一 先生誕生地遺跡 官弊中社 金鑚神社 宮司  従五位勲六等 金鑚宮守書』

 

④龍清寺のヒント  本庄市児玉町保木野387

◎児玉三十三霊場二十七番札所。

◎境内に「かや」の 巨木(昇り龍)があります。

◎三日月不動尊という 日本三大不動様があります。

◎塙保己一先生が幼少期に勉強した寺子屋だったと言う説もあります。

 

 塙保己一公園のヒント

塙保己一生家の西側・龍清寺の南側にあります。

塙保己一先生の旧墓所の墳墓の土を、生家の荻野家が持ち帰って先祖累代の墓地に碑を建てて慰霊したのが始まりで、2百メートル西側にありましたが、老朽化などのため平成24年に百年祭記念碑の隣に移転しました。

塙保己一公園の墓碑は「和学院殿心眼智光大居士」です。

(わがくいんでん しんがんちこうだいこじ)

塙保己一先生の没後百年祭記念碑は、大正11年に建てられました。渋沢栄一さんが題字を揮毫しております。

 和学講談所を引き継いだ息子の塙次郎忠宝は、長州藩の伊藤俊輔(後に総理大臣の伊藤博文)と山尾庸三(後に工部卿、宮中顧問官)に暗殺された。これは百年記念碑の設立時に渋沢栄一が披露した。

塙保己一先生は、文政4年(1821)に76歳で永眠しました。

東京四谷の墓所は安楽寺にありましたが、明治30年(1897)に区画整理事業で廃寺 となり、新宿区の愛染院に移されました。

愛染院の墓碑は「前総検校塙先生之墓」です。 

(さきのそうけんぎょう はなわせんせいのはか)

 

御霊稲荷神社のヒント

本庄市児玉町保木野314

稲荷神社は、塙保己一先生の幼少期に、目を治すために法名(仏弟子の名前)として「弟子の多聞房」と命名された福泉院の末社です。塙保己一先生は検校になった後で、稲荷神社に飾太刀を奉納しています。奉納された飾太刀は長い間行方不明でしたが、令和4年に発見され、現在は塙保己一記念館にあります。

御霊神社は、江戸時代には隣接の新里村(現 神川町)にあり、龍清寺と一体(当時は神仏習合)だったが、明治の神仏分離令により分離させられ、稲荷神社に合殿されて、御霊稲荷神社となりました。現地に由緒の看板があります。

 塙保己一先生と関連が多いので、田中学は別名「塙保己一神社」として振興したいと考えています。

 

検校面田の碑のヒント 

検校面田(けんぎょうめんでん)の碑は、美容室「ゆう」(本庄市児玉町保木野375-1)の向かい側にあります。

石碑の文字は「児玉郡金屋村大字保木野字前田 検校面田弐段拾八歩 昭和六年九月十二日 塙検校百拾回忌 地主荻野武平建之」

 面積は約618坪(約2043㎡)。大きさは45m四方くらい。 

塙保己一先生が借金をして、生家の田畑は3度も人手に渡りましたが、これは塙保己一先生が群書類従の版木作成のために、生家から借金をしたためだと田中学は考えています。下記は塙次郎忠宝(息子)が生家から50両を借りた借用証書です。塙保己一記念館に複数の借用証書がある筈なのですが、現在は閲覧できません。

「検校面田」は、江戸幕府が年貢免除をした「寺社領」と同様の扱いの可能性もありますが、明確な証拠はありません。塙検校が購入したので「検校面田」と呼んだと田中学は考えています。